ダエモンのテレビ日記

テレビ番組の感想を書きます

NHKスペシャル 山一証券破綻の深層 2018年12月2日放送分

NHKスペシャル 山一証券破綻の深層 2018年12月2日放送分

NHKスペシャル 「平成史スクープドキュメント」第2回 バブル 終わらない清算山一証券破綻の深層 ~

◎大蔵省証券局業務課長(当時)の小手川大助
山一證券に自主廃業するように迫った人物

・1997年11月24日に山一證券が自主廃業。
・24兆円の赤字資産があった。

山一證券の常務取締役(当時)の藤橋忍がインタビューに応じる
・バブルのときはみんな高揚していた。

山一證券の事業本部所属(当時)の正富芳信
・資金集めなどを担当。
・24時間働くような立ち場

◎行平次雄(当時の社長)のバブル時のコメント

◎1991年7月放送されたNHKスペシャル「証券スキャンダル」で損失補填が明るみに。
・利回り保証で株価が下がって損失補填を重ねる。

◎当時の橋本蔵相が損失補填を禁止
・行平次雄は損失補填はないと偽る
・損失1200億円を隠蔽。
・問題を先送りしていた。

◎とある社員の会話記録
・副社長が「現状をどうにかしてくれ」と話していた。

◎隠蔽の手口
・損失を複数のペーパーカンパニーに分散、さらに決算期ごとに移動して逃れていた。

◎木下公明(当時の社員)の話。
・木下は社長から全てを任されていた。

◎1992年夏 株価が15000円を割り込んでいた。
・宮沢首相が公的資金を投入を検討したが反対され、危機対応を先送りになる結果に。
・そして金融機関が悪化。

◎内藤純一(当時の大蔵省銀行局銀行課長)の話。
・当時は毎日、現場をどうやってしのぐかで目一杯な状況だった。

東京大学の経済学部資料室
山一證券の創業から破綻までの内部資料がある。
・100人超の証言記録。
・危機的状況を知っていた社員が多数いたが、どうしようもなかった。
・当事者意識の欠如。

山一證券の常務取締役(当時)の藤橋忍
・三木敦夫社長(当時)に相談したが退けられた。

◎火のついたタバコを持つ正富芳信
・前任者から引き継いだとき、まともなやり方ではダメと思った。

◎株価が一時、2万円台になったが。
・行平会長たちは損失が解消できると期待。
・積極的に資金を集めていた。

◎1995年の大和銀行ニューヨーク支店の巨額損失事件
・大蔵省は不正を知りながら開示しなかったことが国際問題に。
護送船団方式という構造が、グローバルスタンダードと乖離していた。

◎中曽宏(当時の日本銀号信用機構局課長)の話
不良債権はそれほど大きくならなかったと過小評価していた。

◎1997年6月の山一證券株主総会
・株主の厳しい追求を社長たちが隠す。
山一證券の株価が低迷していく。

◎藤橋忍(当時の常務取締役)の話
・みんな、現実的になんとかなると思っていた。

◎1997年11月14日(破綻10日前)
・万策尽きかけていた。
・世界中の銀行との提携は断られた。
・大蔵省に生き残りを打診した。大蔵省も前向きだった。

◎大蔵省
・全く違う方針を描いていた。

◎小手川大助(当時の大蔵省証券局業務課長)の話
・相談を受けた翌日に救済はしないと決断していた。
・それは11月15日のことだった。

◎増渕稔(当時の日本銀行信用機構局長)
・日本の金融に対する信頼信用が落ちていた。
・金融恐慌的なことだけは避けたかった。

◎小手川大助の話
・金融システムにさえ影響なければ、個別の金融機関が破綻するのは放っておいていい
・グローバルスタンダードではあの方式(破綻)しかなかった。

山一證券の破綻
・損失隠蔽2700億円に膨らんでいた。
・各社員たちは上に従うしかなかったと述懐。

◎木下公明(当時の山一證券幹部)
・組織第一
・自分の生き方でどこが間違ったかと、ずっと今でもひっかかっています。

◎旧山一證券の本社ビル前にて
・国民負担は10兆円規模に。

◎中曽宏の話
・常に最悪を想定、最善を祈る、最悪が起きないことを祈る。

◎多くの大企業の不正

◎そして21年

◎藤橋忍の話
・我々経営陣の責任

◎沈みゆく船
・それぞれの社員の希望と反省の言葉